人工妊娠中絶について
障害学の授業で「人工妊娠中絶」について勉強する機会があり、その中で印象的な考えがいくつかでていたので、書いていきたいと思う。
前提として、人工妊娠中絶を行う人を分けると
妊娠を望んだ→子供が障害を持っている →人工妊娠中絶
金銭的な理由→妊娠を望んでいない →人工妊娠中絶
精神的な理由
もちろん子供が障害を持っていることが出産前にわかっても、出産をする人は多くいるし、性暴力などの望まない妊娠においても、出産する人がいることも把握している。
今回は人工妊娠中絶の中でも、「子供が障害を持っている」と把握した時の人工妊娠中絶の問題について考えていきたいと思う。
障害の持つ子供を人工妊娠中絶する際の反対意見として
・子供に責任はない ・かわいそうだ。 ・赤ちゃんの人権を守るべきだ
など生まれてくる赤ちゃんに対する意見が上がる。
今回僕が紹介したい意見は2つある。
・そもそも赤ちゃんが障害を持つことを検査することは、道徳的に正しいことだろうか
・障害を持つ赤ちゃんを産まれ、共存していくことが。人類が生存していく上で重要なことではないか
・そもそも赤ちゃんが障害を持つことを検査することは、道徳的に正しいことだろうか
この意見は人類の進歩に対する皮肉であるように感じた。
妊婦血液でダウン症診断精度99%
という大きな見出しを見た人もいるのではないか。
かつ胎児にダウン症があるとわかると中絶する人の割合が9割以上とのデータが出ている。
これに対し、中絶の選択をすることより、検査の選択をすることに対して議論が出ている。生まれてくる子供がどのような特性によって、命という対価を支払わなければならないのだろうか。それは命を引き換えるほどのものなのだろうか。
確かに莫大な治療費がかかる可能性もある。
精神的に負担がかかることも分かる。
しかし、それを加味した上で、母親個人の責任というのではなく、社会としてこれを認めていくのは果たして正しいのだろうか。
このような検査がない時代には、逆に産むしか選択肢がなかったから、それは良かったのかもしれない。
文明は進化して、人類は進化したのだろうか、退化したのだろうか。
・障害を持つ赤ちゃんを産まれ、共存していくことが。人類が生存していく上で重要なことではないか
これは超長期的な視点で見た時の意見である。そのため少し極論に聞こえるかもしれない。
動物は人類のみならず、多くの危機にさらされてきた。
危機の中でも生存、繁栄を続けられたのは、多様性があったからだという意見がある。
Aタイプ、Bタイプ存在する種と、Aタイプしか存在しない種だと
前者が生き残ってきたという例は多くある。
これを今回に当てはめると、
障害を持った赤ちゃんを産まないことは、種を減らすことにつながっているというのだ。
種が減った動物がどのような結末を迎えるかは歴史が示している。
という論である。
正直言って、自分の子供1人をうむ時に、超長期的な人類の歴史の視点を持つ人など
ほぼ存在しないだろう。
ただ、多くの人が関わる可能性の高いテーマに対して、このような見解もあるということを知っておくことは新たな視点を生むきっかけになるかもしれない。
実際夫婦間で相談する際には、そっと胸に留めておくほうがいい場合もあるかもしれないですが。