京都アニメーション放火事件被害者の実名報道批判について思うこと

7月の京都アニメーションの被害者の実名が公表されたことに関して、様々な議論がされている。

メンタリストのDaigoさんが動画にて、「公益性」が不明瞭であること、被害者家族への精神的被害を予測し批判したことは多くの方が知っている事実だと思う。

 

障害当事者の研修としてボストンで研修をする中で、障害に関する議論をすることがあるが、今回の実名報道を聞き、「相模原障害者施設殺傷事件」に関する議論を思い出した。

「相模原障害者施設殺傷事件」での実名非公表から実名公表について考えて、今回の実名公表に関して僕なりの意見をまとめたいと思う。

 

「相模原障害者施設殺傷事件」とは、16年7月に相模原市の障害者施設で入所者19人が殺害された事件である。

被害者家族の強い要望により、特例で被害者の名前が非公表になったというものだ。

 

被害者家族が非公表を強く望む理由はなんだろうか。

今回の京アニの件でも共通して言われていることは、実名報道後の二次被害だと思う。

週刊誌に執拗に取材されることが増え、それが被害者家族の精神的被害になるというもの。これには、大いに納得できる。被害者家族は被害者本人の次に考慮、配慮されるべき被害者であると思う。

 

ただ、僕がやはり気になるのは、被害者家族は被害者の「次」であり、亡くなってしまた本人の意見を死後に聞くことはできないもののもっとも優先されるべき意見は「本人」であるということだ。

話を「相模原障害者施設殺傷事件」に戻す。

特例で被害者本人の名前が非公表になったが、なぜ特例になったのか。

これは、被害者家族の被害者本人への「差別意識」が隠れているように感じる。

もちろん完全に「差別意識」をなくせというような、障害のない人と完全に同じように接することが現実的に難しいことはわかっている。

 

しかし、亡くなった本人が仮に天国からその様子を見ていると仮定した時、本人はどのように感じるだろうか。

 

「僕が障害者だから、実名で報道されるとお母さん、お父さんに迷惑がかかるのか」

「お母さんは僕と家族であったことが全国に知られることに強い拒否感があるのか」

と感じないだろうか。

もちろんそんな風に思っているかなんて全くわからない。知る由も無い。

家族に被害が出ないことが、何より本人にとって幸せなことかもしれない。

でも、彼らが障害を持っていようと、それを全国の他人が知ろうと、彼ら自身を家族が愛していたことを彼らが天国からしることが彼らにとってもっとも幸福なことではないだろうか。

 

今回の事件についてもそれに近いことが言えないこともないと思う。

実名報道に対して公益性が大きく見込めなくとも、自分が生きていたことをちゃんと名前をあげてほしいと思う今は亡き被害者もいる可能性もある気がするのだ。

僕が言いたいのは、実名報道するかしないかを決定できる最大の決定権、正義は亡くなった彼ら自身が握っているということだ。

彼らがどう思うかは、彼ら自身をもっともよく知る人たちが予想し、決めるしかない。

その予想が、被害者本人は実名報道を望まないだろうと予想するならば、その意見は尊重されるべきだとも思う。この時も、本人の予想される意思を考えるというスタンスをとってほしいと思う。

はっきりいって赤の他人がそれを予想するのは不可能だと感じるので、どのような形の署名活動かにもよるが、全く無意味なものであるように感じる。

 

 

僕がこう思うのは、僕の障害の経験からくるのかもしれない。

僕が去年、「痙性斜頸」になった時すごいショックを受けた。

人には言いたくなかった。

だが、自分がカミングアウトすることで、誰かのためになれたと思えたことは、障害が重かった時期の僕にとって、自分が障害を持ったことを受け入れることができた理由の一つにもなりえていたと思う。病気になってからそのように考える人がSNSを通じて僕だけでないことも知った。

僕の好きなアーティストにtroye sivanという人がいるが、彼はゲイだ。

それを公表することで、精神的に救われた人が多くいることも知っている。

今回の事件で彼らが、自分が亡くなったことが数字でなく実名で報道され、その多くの追悼で今回のような事件が2度と起きないことに貢献でき、彼らの死が彼らにとって絶望的な意味だけでなく、少しでも意味のあるものになり、彼ら自身が「死」を受け入れられるようになると仮定したら。

 

今回の件と少しずれてしまったかもしれない。実名でなくてもそれは可能とも言えるかもしれない。でもあまりにも多くの人が実名報道を「マスゴミ」と単純に批判して、実名報道に関する様々な側面を本当に真剣に考えているのか疑問になり、その空気感に違和感を感じたのでこれを書くに至った。

読みづらい文章であるし、これに対して納得できない人も多くいるかもしれないが、それで大いに構わない。

ただこれを読んだ人には、謎の正義感から他人の怒りに無意識に同調し一辺倒に批判する人にはなって欲しくないと思う。